ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:言葉に囲われた良心の呵責たち


責める


言葉には
責めるという働きがある


だから
言葉を嫌いになる時がある


言葉を吐く人が嫌いになる時がある


責めることにより
周りの環境を整備しようとするのだろう


時に大声で
怒鳴り散らし
非を責める


責めにより
責めた者のための環境が整えば
怒鳴り散らすことで
目的が達せられ
成功を収めることにもなるのだろうが
責めることにより
責め返され
責めた者のための環境が乱れることにもなりかねない


むしろ
責め返されることが多いのが
対等な人間関係なのだろう


売り言葉に買い言葉だ


権力があれば
責め返されるリスクは減るが
通常は
責め返される


そして
責め合いの戦争が始まる


自分が悪かったと思っても
引くに引けなくなり
戦争はエスカレーションしてゆく


そして
悪かったと思う良心が
取り残される


言い合いは
議論でもあるが
せめぎ合いの様相が強い


良心より
勝敗が気にかかる


他者との関係より
自分自身の自尊心が気にかかる


他者との関係が大事なのか?
私のプライドが大事なのか?


関係を殺すのか?
私を殺すのか?


私の正義とは
私のためなのか?
それとも他者との関係のためなのか?


様々な思いと共に
せめぎ合う


そして
正しさの毒にやられた時
嘘のやさしさが身に染みる


やさしさが大事なのか?
正しさが大事なのか?


言葉のせめぎあいのなかで
忘れかけられた良心が揺れ動く


一度放たれた言葉は
ハンマーで打ち砕こうにも壊れない


そんな言葉を引き留めようと
置いてけぼりの良心が
せめぎあいの中で
かすかにわずかに揺れ動く

生命と反応:朝が来る幸せという反応


人間がいてもいなくても
朝が来て日が昇り
日が沈み夜が来る
・・・はずである


人間がいない世界で
朝が来る光景を
私は見ることが出来ないから
「・・・はずである」とつけてみた


推論や想像はできても
確知できないからである


「全て」の世界は
人間がいない世界を含むのだから厄介だ


だからなのかもしれない
「全て」を知ろうとすることは
なんだか
不老不死への願望に似ているところがある


知るということと
生きるということは
共に
特殊な状態を維持することであり
特殊な状態を維持する能力があって実現している


特殊な状態を形成できないことに対しては
沈黙しなければならない


特殊な状態を維持できない時は
死に絶えねばならない


だから
不老不死を目指して
特殊な状態を維持する技術を探したり
「全て」を知ろうと
特殊な状態を観察する技術を探したり
特殊な状態を維持する技術を磨いたりする


こうした技術の範囲内で
世界を知り
命を育む


地球も惑星という特殊な状態を維持している


その上で
自転をして朝や夜を演出している


この特殊な状態を観察しながら
なぜ朝が来るのかを考える


なぜ朝が来るのか?
そんなことが解らなくても朝が来る幸せが
幸せな朝を演出してくれている


「全て」を知らなくても
幸せは訪れるから
事実より嘘が優しくもなるのだろう

生命と反応:神の恵と悪魔の所業


離そうにも
どうにも離れない


夏山で
アブに襲われた


一匹二匹なら
手で追い払えばよいのだが
時間と共に増えてきて
何十匹
何百匹のアブに襲われ
その場から
走って逃走した


走ることに疲れても
動くことをやめれば
たちまち
アブがまとわりつく


アブは刺すのではなく
噛みつくのだそうだ
そして
滲んだ血を舐めるという


シカの血を舐めていればよいものを
アブには
シカも人間も変わらないのだろう
むしろ
毛のない人間の方が
血を舐めやすい格好の獲物なのかもしれない


毛のない獣は
アブにとって
神の恵にも思えるのだろう
執拗に追ってくる


離そうにも
どうにも離れない


今度来るときは
殺虫剤を持参しよう


私は
神の恵にはなりたくないのだ


悪魔となり
殺虫剤を振り撒くのだ


アブは血を要求しながら生きている


私は
それを拒みながら生きている


拒み切れなくなったとき
私はアブに食いちぎられ
血だらけになり
死に絶えるのだろう


そして神の恵になる


アブたちのために神の恵として
命を終えるのだ


アブたちは
神の恵に感謝してくれるだろうか?


***


神の恵を貪るものは
きっと
悪魔の所業をなしている


感謝すべし
贖罪すべし