ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

局在と遷移:客観的物事と主観的物事


局在から見て
内部で観察する物事は主観的であり
外部で観察する物事は客観的だ


言語という局在から見て
言葉は主観的であり
他言語の言葉は客観的だ


こうしたものの見方において
宗教という局在から見て
神は主観的存在であり
他の宗教の神は客観的だ


客観性を重視する科学において
神様が重要視されないのは
このような考えから来るのではなかろうか


他宗教の神を否定することが
自身の宗教を維持する方策として取られていることが
一般的であるからだ


客観的な神を否定する風潮が
宗教にあるということだ


信じられずとも存在する神こそ
客観的な神様ということになる


「私」という存在も
こうした神のような存在で
客観的というより
主観的な存在になっている


私の「私」は他者には存在しないと思うから
客観的になれないからだ


他者の痛みを感じるに限度がある


「私」といえば
やはり痛みを実感できる主観的な私の「私」なのだ


我思わずして ある 我こそが
客観的な我なのだ


だから
なかなか客観的神様や客観的な私を想像できない


それでも
こうした主観的な神様や
主観的な「私」を
既存の社会の枠に協調させ
客観的な神様や「私」に加工する努力が
社会の維持のために実践され
客観的な神様が存在したり
客観的なあるべき「私」が描かれている


そんな
客観て客観的な神様や「私」に取り込まれ
主観的な神様や「私」はより大きな局在に取り込まれ
その局在の反応の循環の一部として
存続し続ける


主権の制限された主観になるのだ


国際協調はこのような主権の制限において成立する


このような協調世界において
主権を強調しすぎると
ならずものになる


そうでなければ
覇権を握る国家となる


国際社会の中で
国はどこまで主権を譲るのか
国家の中で
国民はどこまで主権を譲るのか
社会の中で
会社の中で
人はどこまで自分を譲るのか


主観と客観が入り混じりながら
局在たちが
ゆったりと遷移を繰り返す

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