ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

組織と個人:組織は心のないサイコパス


善悪には相対的なところがある


自社の売上増は「善」であり
ライバル社の売上増は「悪」であるところがある


自社の新技術開発は「善」であり
ライバル社の新技術開発は「悪」という具合である


好き嫌いにも相対的なところがあり
自分の取り分が多いと嬉しくて「好き」ということになり
自分の取り分が少ないと悲しくて「嫌い」ということになる


二人でをかけそばを分け合う時
自分の取り分が多いと「好き」となり
相手の取り分を多くするのは「善」ということになる


自分ではなく
会社のためになることが「善」なのである


自分ではなく
かけそばを分けある人のためになることが「善」である


個人の中に
自然と湧き上がる「善」なら良いのであるが
「滅私奉公」のように
押し付けられる「善」は
個人を圧迫する事態を招くことがある


悪事に加担した政治家の秘書の自殺


悪事を為し
そのことで良心の呵責に耐えかねた官僚の自殺


原作を捻じ曲げられ
それに抗うことを
「善」として受け入れられなかった漫画家の自殺


組織は
多人数が少しづ罪を分け合い
大きな罪を犯す


その罪を一身に浴びた個人は
たまったものではない


こうした罪が組織の「善」の元に行われると
正義の人が罪を犯すことになるのだからたまらない


戦場の戦士は
正義の旗の元に敵を殺す


正義の旗が旗がかかげる「善」に抗えば
不運な秘書や官僚や漫画家のように
四面楚歌に陥ることになる


「善」には相対的なところがある


絶対的で普遍な「善」に支配されないような
自制心を伴う組織とは離れた自律が求められるところである


個人の好き嫌いには組織の善悪が容易に入り込むのに
組織の善悪には個人の思いがなかなか反映できない


組織は
心のないサイコパスに陥りやすい


だから
組織を最優先し
他の組織や個人をないがしろにしてしまう


休日は
組織から離れ
このことを思い出してもらいたいものである


得難いことなのだろうけれど
ことに
組織の重鎮にはお願いできればありがたい

組織と個人:戦闘とモラハラと21世紀のルネッサンス


戦闘を「好き」でしている人は
そう多くはいないだろう


戦闘のシュミレーションゲームが流行るのだから
戦闘が「好き」な人はいるのだろうけれど
実際の戦場で
命を懸けて戦うとなると
戦闘シュミレーターも二の足を踏むだろう



私は思っている


私は
死ぬのは「嫌い」で

死ぬのは嫌だと思っているからである


人を殺すのも嫌なことである


だから
なおさらに
戦場で戦闘をしたいと思う人は
いないのではないか
と思っている


それでも
実際に戦場でたくさんの人が闘い
負傷し命を削り合っているのは
大義のために戦うことが「善」であるからに相違ない


そして
戦闘の相手は「悪」である


「悪」を倒すことは「善」であるから
相手が「悪」であることにより
なおさらに「善」の意識をもって
戦闘を行えることになる


さらに
「仲間」を殺されたという恨みも
戦闘行為を「善」なるものにしてゆく


こう考えてくると
「善」のイデアというものがあると
これは麻薬に違いないと思えてくる


麻薬は人間を狂わせる


だから使用しないように取り締まるべきなのであろうが
取り締まるべき社会が
戦争という麻薬をまき散らしたりするから
麻薬が蔓延してゆくことになる


「善」は麻薬である


西田幾多郎先生は
心の奥底に「善」が備わっているという


確かにそうかもしれない


しかし
社会のためになる「善」ばかりを刺激しては危険である


個人が生きるための「好き「嫌い」を無視して
「善」ばかりを強調するのは
社会が生き延びる手段であり
個人のためにはならないことを
肝にも銘じておかなければならない


と私は思う


「善」を押し付ける
モラルハラスメントが嫌われるのは
この辺に理由がある


このような思考軸において
モラハラの主張は
21世紀のルネッサンスということができるだろう


組織からの
人間復興である

組織と個人:「好き」「嫌い」「善」「悪」


「好き」「嫌い」で判断する時と
「善」「悪」で判断する時がある


「好き」を選べとうれしくて
「嫌い」を選ぶと辛くなる


「善」を選べば善良な人になり
「悪」を選ぶと下劣な人になる


「好きで善」なら幸せになり
「好きで悪」ならわがままになる


「嫌いで善」なら偽善となり
「嫌いで悪」なら悪のしもべである


         好き
          I
   しあわせ   I   わがまま
                       I
善  ー-------+--------- 悪
          I
    偽 善   I   悪のしもべ
          I
         嫌い


「好き」「嫌い」は個人に任されるが
「善」「悪」は社会や組織で醸成される


これは
「好き」「嫌い」は個人が生きるために働き
「善」「悪」は社会や組織が生き延びるために働くからに相違ない


これだから
うまく機能している社会や組織は
幸せ者と偽善者から成り立ち
敵対する社会や組織には
わがままな人や悪のしもべが満ちているという事になる


社会性が高まると
個人の「好き」「嫌い」より「善」「悪」が優先され
相対的に
偽善や悪のしもべが増えてゆき
逆に
社会性が低下すると
「善」「悪」より「好き」「嫌い」が優位となり
相対的に
しあわせ者やわがままな者が増えてゆく


状況により
同じ人間でも
「好き」「嫌い」「善」「悪」の
どれをどんな割合で織り交ぜているか違っている


どんな尺度で

自分が何をしようとしているのか?
時に
立ち止まって考えられたらありがたい